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2016年6月

2016年6月28日 (火)

つぶやき 9

         「子供 雨  無料画像」の画像検索結果

アドラー心理学を書き終えて。

偉そうに5回に渡って書き綴りましたが、長文にも関わらず

沢山の方にご訪問頂き感謝しています。

私もアドラーの理論をすべて受け入れている訳ではありません。

しかし、大いに役立っています。

先日、ネットのニュースでアドラーの子育て法の記事を

見つけました。

参考になればと思い、貼り付けます。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160619-00028473-jprime-life

アドラーが説く子育て法(週刊女性)

 

 

人は、誰だって「良い人」でいたいです。

でも、誰から見ても「良い人」になんかなれない。

私は、コミュニケーションを取ろうと思ってしたことが

相手には意地悪、嫌がらせと取られ苦しんだ時期があります。

被害妄想が強い人だったので、「敵」扱いされ困りました。

悪意はないことを分ってもらえない事が悲しかったですね。

心の病を患っていることは、知っていましたが

私の手に負える状態ではなかったのですね。

仲良くしたかったのに残念です。

私のどこかに上から目線、傲慢な部分があったのかもしれません。

その点は、深く反省しています。

怖い思いをさせてしまったと思うと申し訳なく思います。

以後、彼女には近づかないようにしています。

直接、謝罪をと思いましたが、これ以上、怖い思いを

させたくないので、共通の友人から伝えてもらうよう

頼みました。

 

人は、自分を守る、自分の非は認めたくないものです。

責任転嫁をして、問題をこじらせることもあります。

正直に自分を見て、受け入れるべき所は受け入れ、

ちゃんと反省すべきは反省し治める冷静さは必要ですね。

その時、その人の人間性が出ると私は思います。

 

私は、子供の頃から自分の問題は自分の中で解決して来ました。

みんな、そうしていると思っていました。

だから、アドラーの理論はすぐに理解できました。

後は、実行あるのみでした。

初めのカウンセラーさんは、私の話を受け入れてくれ、

共感して下さる方でしたが、その次のカウンセラーさんは、

一切共感はしてくれませんでした。

それが、逆に良かった。

私の中にあった毒を出すことに繋がりました。

自問自答、自己憐憫、自己嫌悪、も~う、どれが本当の自分だか

解からなくなって、めっちゃ苦しかったし、辛かったけど、

アドラーの理論を採用して、カウンセラーさんに手伝って

もらいながら自分なりに整理をして落ち着きました。

 

もうひとつ、スピリチュアルを取り入れたことも

私を楽にしてくれました。

人は、そんなに色々なことを考えて生きているわけじゃない。

だけど、生き辛さを抱えて生きるのは、辛いですよね。

生き辛さを和らげてくれる事(物)は、人それぞれ何か

あると思います。それは、個人差があります。

『起る事には意味がある。』

そうなるには、そうなる理由があるのですね。

自分は、なんて可哀想なんだ。不幸なんだと自己憐憫に

浸っていては、幸せにはなれないのですよ。

自己憐憫は、マイナス(ネガティブ)感情ですからね。

 

 

欧米では、自己主張することは、当然のことです。

これが出来ないと生活に支障が出ます。

日本の教育(記憶)と欧米の教育(自ら考える)を受けている

私には、当たり前のことになっています。

それが、私の「気のキツさ」「攻撃的」に見られる点でしょうね。

しかし、逆に「頼り」にもなるようです。

生真面目な性格、責任感の強さ…

どうして私は、こんなにもガチガチな考え方をするのか

自分でも嫌になる時があります。

よく、父と口論になった後、父が言います。

『お前の言うことは、筋が通っている。だから、言われた方も

図星だから意地になる。正論を言われるとムキになる。

自分に後ろめたさがあればあるほど、俺は悪くないと言いたく

なるものだ。お前を怒らせると怖い。』と。

 

でも、私は日本人ですから、もっと穏やかに事を進めるように

した方が良い事も知っています。だから、いちいち相手にして

ムキになることも違うのですね。私が、ムキになる時は何かを

守りたい時だけです。

私は、平和主義者ですから。本来は、物事を静観するタイプ

だと学生時代の友人には思われているようです。

こんなに強く主張するようになったのは、マンションの

役員をやるようになってからですね。

それでも、まだまだ主張が弱いとマンションのお友達に

言われます。でも、これ以上、強く主張するのは

私としては避けたいです。

それは、自分が望み理想とする自分ではないからです。

穏やかさの中に強さを持った女性になりたいです。

学生時代のように静観して、いざとなった時に出る。

これ、めっちゃ怖いパターンだけどね。()

学生時代に抱えていた生き辛さは、解消しました。

また、学生時代の自分に戻って穏やかになりたいな~

しかし、あの頃の私はクール過ぎだけど…^^; 

幼き頃は、いつもニコニコしている子だったと

母が言っていました。いつから、こんなに堅苦しい人間に

なってしまったのだろうか(;´д`)=3トホホ・・

 

 

人は他者と戦うのではなく、自分と戦うのである。

理想の自分と現実の自分との間で戦うのである。

この思考が、私を大きく成長させてくれました。

他者に分って貰いたいと思うことが、依存になり

自分を苦しめることになるのですね。

すべて自分の中での問題。自分の中で解決すれば良い。

憎しみや恨み、怒りも捨て去ればいい。

敵だと思うから、それらの感情が湧いて来る。

家族や親しい相手なら、甘えや依存があるから。

自分の思い通りにならないことなんて沢山あります。

 

自分の中で問題を解決するには、それなりの知識と経験が

必要になります。

その知識と経験を得る為に、私は心の病になったのだと

思い、感謝しています。

スピリチュアル的に考えれば、すべてのことには、

そうなる意味がある。学び(気づき)がある。

なぜ、そのことが起ったのか?何を教えようとしたのか?

嫌なこと、悪いこともすべて学びの為と思えば良い。

自問自答すれば自ずと答えは出て来ます。

反省し修正すればいい。

『受け入れれば、悩みは解決します。』

 

私は、自分の中で問題を解決するので、友達から見ると

何を考えているのかわからないらしい。

『エル、あんた、頭の中で色々考えているんでしょう?

 もっと、友達に吐出しなよ。あんた、学生時代から

愚痴を言わないよね。よく、頭が爆発しないよね。

愚痴も大事だよ。』と親友に言われたことがあります。

愚痴を言うのは、聞いている人には迷惑だと思ってしまう。

しかし、案外、人は他人の愚痴をちゃんと聞いてはいない

もので聞き流しているのでしょうね。

私だって愚痴りたいよ!だけど、私が愚痴ると決まって

『また、その話!』と言われる。愚痴るなってことやろうが!

誰も、私の愚痴を聞いてはくれんのや(-_-;)

だったら、自分で考えて解決するしかないやん!

多分、私の友人の中で私は『愚痴らない人』とのイメージが

出来ているのだと思います。だから、愚痴り辛い。

愚痴るとは、甘えることだと私は、思っています。

甘えるとは、依存だと思っています。

だから、ややこしくなんねん!

甘え下手が、顕著に現れているエルザであった。

 

強くなることも弱くなることもない。

無理することはない。自分らしく歩めばいい。

私の良い所を出して行けば良い。

私の持っているお姉ちゃん気質(強い母性)を

誰かの為に役立てるよう使えば良い。

実際にそれが誰かの為になっていると良いのですがね。

このお姉ちゃん気質も時と場合によっては、上から目線、

傲慢に取られる場合があります。要注意なのですよね。

それと、もうひとつ気を付けなければいけないのは、

「余計なお世話」ってやつですね。

つい深入りしてしまいます。

ここ数年、課題の分離が少し疎かになっていました。

その為、余計な心配をして自分を苦しめることになっていた。

お友達にもご迷惑をおかけいたしましたm(__)m 

 

アドラー心理学を記事としてアップすることで

自分の気持ちの整理もしました。

今年前半も色々とあり、自分で本当の自分が解らなく

なっていました。混乱しまくり~^^;

ここ数年を振り返り反省もしました。

また、忘れて突っ走ってしまうかもしれません。

その時の為に記事にしました。

 

 

最近、マンションの管理組合関係が忙しい。

書類って、そんなに大事ではないのかな?

私が、形式にこだわり過ぎているのかな?

提出書類が揃っていないのに、工事の許可を出すって

どういうことなんだろうか?

社会人として基本じゃないの?

管理会社の不手際を理事である私が尻拭いするのは違うと

黙っていたけど、工事の時に発生する音は、住人には

迷惑なことだし…

じっとしていられず店舗さんと直談判して片づけました。

まぁ、店舗さんとコミュニケーションが取れたと思えば

悪いことではないけど…(・へ・)フクザツナシンキョウダ

大阪から来た方で、関西弁なまりの標準語でした。

私もつられて関西弁なまりに…^^;タンジュンヤナ~

常識のある良い方だったので良かったです。

 

ちょっとゆっくりしたいな~と思っているのですが、

なかなか神様は、時間をくださらない。

今は、色々と余計なことを考えなさんなってことかな?

お蔭で穏やかな毎日です。

 

2016年6月20日 (月)

スタンダード・ジャズ 7

久しぶりの音楽記事です。

堅苦しい記事が続いたので、リラックスしましょ~う(^^)/

梅雨の時期、雨音を聞きながらジャズを聴くのもいいかも。☂

それにしても、水不足は深刻だ!

そんなこんなで、Swingしましょう~♪



ダイナ(ジョー・ウィリアムス)



ドゥ・ナッシング・ティル・ユー・ヒア・フロム・ミー

                          (ルイ・アームストロング)



ドント・ブレイム・ミー(ナット・キング・コール)



ドント・エクスプレイン(ビリー・ホリデイ)



ドント・ゲット・アラウンド・マッチ・エニモア 

         (ルイ・アームストロング)



ドリーム(パイド・パイパース)




エルザのちょっとつぶやき 

音楽記事の度につぶやくのがクセになってしまいましたね^^:

広場でもつぶやかせて頂きましたが、顔の右側が痺れています。

リウマチの定期診察に行った際に先生に話したところ

簡単な脳診断をしてくださり『脳じゃないね。神経じゃないの?

耳鼻科に行きなさい。心配なら脳外でも良いけど、身体は

動くんだろう?耳鼻科か神経内科だと思うけどね~』と言われました。

その後、耳鼻科、神経内科に行きましたが、異常なしでした。

結果、リウマチによる神経のダメージ。ストレスによる神経ダメージ。

まだ、時々ですが痺れる。でも、気にしないようにしています。

医学的に問題がなければ、気持ちの問題でしょうね。

いつか、その意味(メッセージ)は、解かるでしょう。

何かに対して機能不全になっているのかな?

広場の皆様からの助言、お見舞いに感謝です。

ありがとうございました(*・ω・)*_ _))ペコリン

 

 

 


2016年6月16日 (木)

アドラー心理学(人生の意味の心理学)『共同体感覚』5

アドラー心理学 最終回です

今回も動画があったので貼り付けます。

今回は、動画があるので文字での書き込みは大幅に省きます

それでも長文m(__)mゴメンナサイ



動画:『自分』と『他者』を勇気づける。

 

 

われわれのまわりには他者がいる。そしてわれわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することはできない。もしも一人で生き、問題に一人で対処しようとすれば、滅びてしまうだろう。自分自身の生を続けることもできないし、人類の生も続けることはできないだろう。そこで、人は、弱さ、欠点、限界のために、いつも他者と結びついているのである。自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である。

(第一章 人生の意味「人生の三つの課題」) 

 

ここで「他者と結びついている」ということが、アドラーの言う

「共同体感覚」の意味です。

共同体感覚を表現するドイツ語は、いくつかあります。

Mitmenschlichkeitミットメンシュリッヒカイト)がその一つです。

これは人と人(Menschenメンシェン)が結びついて(mitミット

いるという意味です。

そして、このMitmenschenミットメンシェン)がこれまでも

見てきたアドラーがいう「仲間」という言葉の原語なのです。

他者を仲間と見ている人は、その仲間である他者に貢献し、

貢献感を持つことで自分に価値があると思えば、対人関係に

入っていく勇気を持つことができます。

生きる喜びや幸福は他者との関係からしか得ることができません。

アドラーは以上のことを「自分自身の幸福と人類の幸福のために

もっとも貢献するのは共同体感覚である」と説明しています。

 

しかし、すべての人間がそのように思って生きているわけでは

ありません。共同体感覚が欠如しているからこそ、人を蹴落と

してでも出世したい、自分のことをさらに大きく見せたいと

考え他者を支配しようと考えてしまいます。

 

 

彼(女)らが人生に与える意味は、私的な意味である。つまり、自分が行ったことから益を受けるのは自分だけである、と考え、関心は自分にだけ向けられているのである。彼(女)らの成功の目標は単なる虚構の個人的な優越性であり、勝利は自分自身に対してしか意味を持っていない。

(第一章 人生の意味「共同体感覚」)

 

ここでいう「人生に与える意味」とは「人生の意味づけ」のこと。

共同体感覚が欠如している人は、人生に「私的な意味づけ」を

行い、自分だけにしか関心を向けず、自分の得になることだけを

目的として生きています。

しかし、人間は一人では生きられない。

必ず他者と共生しなければならない。

優越コンプレックスのある人も、その裏返しの劣等コンプレッ

クスのある人も、共に彼らの目指す優越性は、「個人的」なもの

であって、それが他者に貢献するかということは問題になりま

せん。

彼らの優越性の追求は競争が前提で「勝利」は自分自身に

対してしか意味を持たないのです。

 

アドラーは、この共同体感覚の欠如が戦争を引き起こすと

言っています。

仲間だと考えれば競争などしないで、協力して言葉を尽くして

解決しようとする。確かに、平和的ですね。

友達、夫婦などで言い争いになることってありますよね。

でも、どちらかが冷静に話し合おうとすれば治まることも

あります。

お互いに自分が上だという意識、相手を抑えつけようという

気持ちがあるのでしょうね。

共同体感覚の欠如している人は、攻撃的になります。

お互いに対等な立場、共同体感覚を持って話し合えば

 

冷静に事は治まると思います。

 

 

人生の意味は全体への貢献である。

人生の意味は貢献、他者への関心、協力である

 

ここでいう「全体」は、「共同体」のことですが、

もしもこれが既存の共同体であれば、全体主義になって

しまいます。

【全体主義:個人主義の反対概念で国家、民族、階級など〈全体〉

の〈個〉に対する優位を徹底的に追求しようとする思想・

運動体制をいう。イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、

ソ連のスターリニズムなどがその典型とされる。】 

先に、所属感は人間にとって基本欲求であることを見ましたが、

「全体の一部でありたい」(『子供の教育』)と思えるからこそ、

他者に貢献したいと思える。全体主義という言葉に連想が

働くのは、私益しか考えていない一党一派が全体の益を考えて

いると欺き、全体を支配するということが、歴史上何度も

あったからですが、アドラーの言う、人は全体の一部であると

いうのは、それとはまったく意味が違います。

 

なぜ貢献感を持つことが必要なのか。

まず、一つ目は「自己受容」です。

ありのままの自分を受け入れるということです。

自分を受け入れることができるためには「自分は特別によく

なくても、悪くなくてもよい」と考えるのがポイントです。

自分を受け入れる一つの方法は自分の短所を長所に置き換えて

みることです。

自己受容の重要性について、アドラーはこんなふうに言って

います。

 

自分に価値があると思える時だけ、勇気を持てる

 

 

二つ目が「他者貢献(感)」です。

アドラーは、先ほど引用した言葉に続けて、こうも言っています。

 

私に価値があると思えるのは、私の行動が共同体にとって

有益である場合である。

 

自分が役立たずではなく、役に立っている、貢献していると

感じられる時に、そんな自分に価値があると思え、自分を

受入れることができます。今、引いたアドラーの言葉には

注釈が必要です。

まず、共同体は既存の社会ではないということ。

例えば、定年退職して元気を失くしてしまう人がいますが、

人は誰でも複数の共同体に属しています。

定年後も家族、地域社会、国家、さらにはもっと大きな共同体に

所属しています。そこにおいても何らかの貢献ができると

考えたい。目の前の小さな共同体に固執することはありません。

次に、貢献を行動だけに限定する必要はない。

行動によってしか他者や社会に貢献できないとすれば、乳幼児や

寝たきりの高齢者は他者に貢献できないことになる。

そうではなく、誰もが「既存レベル」で貢献できるのです。

何かをしなくても、自分の存在自体が他者に貢献していると

感じられる時、自分に価値があると感じられます。

 これ、私にはよく理解できます。

『居てくれるだけで良い。生きていてくれるだけで良い。』

そう、言われたこともあります。言ったこともあります。

それこそが、大きな愛なんじゃないかと、最近、つくづく

思います。 

 

三つ目は「他者依頼」です。

ここで「信用」と「信頼」を区別します。

信用とは、条件付きで人を信じることです。

信頼とは、無条件で人を信じることです。

人と人の関係性は、条件付きの信用ではなく、無条件の信頼が

あって初めて成り立ちます。確かに信頼していた相手から

裏切られるたり、傷つけられることもあるかもしれませんが、

裏切られることを怖がって対人関係の中に入って行かなければ、

誰とも深い関係に入ることはできませんから幸せになることは

できません。

 

以上の三つのことは、円環構造をなしています。

つまり、自分を受け入れることができる為には、貢献感が

なければなりません。貢献感を持てるためには、他者が敵では

なく仲間であると信頼できることが必要になります。

 

 

アドラーの教育論の基本は「勇気づけ」にあります。

親や教師は、子供が共同体感覚を持ち、対人関係の中に

入って行く勇気を持てるように援助しなければならない。

教育の世界では、伝統的に「叱ること」と「褒めること」が

重視されて来ました。しかし、アドラーはそのどちらも

認めていません。

アドラーの教育論は、私もスイミング講師時代に参考にしました。

私は「叱る」ことは、しませんでした。それは、私自身が

親に叱られて育ったからです。叱られた子は、自分に価値がない

ダメ人間だと思います。

アドラー心理学でいう上下関係があることで萎縮してしまう。

「叱る」と「怒る」は、違いますよ。

「叱る」は、理性。「怒る」は、感情です。

殆んどの親が、感情的になって子供を怒っていると

私は思いますけど。

『叱らないで、どうやって教える(躾ける)んだ。』との

声が聞こえて来ますが、簡単なことです。

子供に考えさせればいい。

子供は、大人の行動を見て学んでいるものです。

親(大人)が正しい行動をしていれば子供は自然とまねをします。

「どうすればいい?」と子供に問えばいいのですよ。

何かのやり方が分からずにいるのなら「こうやるんだよ」と

教えてあげれば良い。

しかし、場合によっては親(大人)から注目して欲しくて

怒らせるようなことをする子もいます。

私は、その場合、黙ってじっと見ています。

もしかしたら、その行為は圧力を掛ける事になるかもしれません。

しかし、振り向いてもらえないと悟った子は大人しくなります。

そこから、その子が学ぶことをあるでしょう。

親(大人)は、普通に接してあげれば良いと思います。

 

この「褒める」も難しいです。

褒めてばかりいると褒められたいとの欲求が強くなり、

褒められなければやらない子になってしまいます。

私は、子供が何かに挑戦した時に「褒める」を使います。

『良かったね。あなたの努力が実って良かったね。』と。

すると子供は、努力をすれば乗り越えられるということを

身を持って経験できます。それは、その子の大きな自信・力

になります。

これは、私の自論ですけどね。

岸見先生は、『助かった。』『ありがとう。』の言葉で子供は

貢献感を抱くことができると言っています。

 

ちょっと余談ですが、先日の北海道の置き去り事件。

子供のしつけは、体罰を与えて教えることではないと思います。

これも、言葉で教える。何がどういけないのか。

親は、人生の先輩です。

決して上から目線で子供に接してはいけない。

教えるのは、諭せばいいのです。

この子は、一生親に対し不信感を抱き接することになるでしょう。

こんな悲しいことはありません。

 

叱られたり褒められたりして育った子供は、大人になっても

どうすれば叱られないか、褒められるかということばかり

考えるようになるという意味で、自分にしか関心を持てない

ようになってしまいます。

自分にしか関心がない人は、他者への関心がない。

つまり共同体感覚を持っていないことになります。

自分にだけ関心を持つのではなく、他者に関心を持ち、

他者に貢献してみようと思えばいいのです。

貢献できると思えば、自分に価値があると思えるようになります。

そのように思えた時に、他者はもはや「敵」ではなく

「仲間」と見なすことができます。

自分についての見方、他者についての見方(これがライフスタ

イルの意味です。)が変ると、すべてが変って見えてきます。

パソコンやスマホにはOS(オペレーションシステム、

基本ソフト)が入っていますが、それを更新した時のようです。

ハードが同じでも、OSが新しくなると新しいパソコンや

スマホになると言っていいように、自分を他の自分に交換

できなくても、ライフスタイルを変えると新しい自分に

なれるのです。

 

 アドラー心理学、いかがでしたか?

よく『自分は変えられないから』なんて嘆いている人が

いますよね。

不都合なら変えれば良いのですよ。

簡単ではないけどね。

変りたい、変えようと思ったら3日もあれば変れる。

 

私のカウンセラーさんが面白いことを言いました。

私が『いつも部屋に髪の毛が落ちていてイライラする。』と

言ったら、『拾えば良いじゃない。』と(゚∀゚ ;)タラー

そうなんです。()

イライラするのなら、その元を片づければいいのです。

頭で考えるだけでなく、行動するですかね。

 

アドラー心理学は、ストレートだと思います。

屁理屈はないと思います。

私自身は、すべてを受け入れた訳ではありませんが、

自分を立直す(更新する)のには、とても役に立ちました。

時々フッと感情的になり『敵』を作ってしまいますが、

すぐに気づき消し去ります。

 

少しでも、役に立てば幸いです。

もっと詳しく知りたい方は、動画も探せばあるかもしれません。

 

永い間、お付合いありがとうございました。

 

岸見先生の文章と私の文章を分ける為に書体を変えています。

読みづらいかもしれませんがご了承ください。

 

(人生の意味の心理学 参照)

 

 

 

2016年6月10日 (金)

アドラー心理学(人生の意味の心理学)『課題の分離』 4

この回に関しては動画があったので、貼り付けておきます。

途中ドラマ仕立てでわかりやすく解説がされています

対人関係を転換する。

今回は、対人関係のありかたについてです。

子育てや介護を例にとって話が進められています。

記事に関しては、動画を観て頂ければ解かると思うので

大幅に省いて書きます。それでも長文^^;

 

アドラーは『すべての悩みは対人関係にある』と考えました。

人間という文字は『人の間』と書きますが、人は一人だけでは

『人間』にはなれません。赤ん坊が他者の保護なしに生き延びられ

ないのを見てもわかるように、はじめから私達は他者との

関係の中で生きているのです。

 

対人関係の問題は、他者を自分の行く手を遮る存在『敵』と

見なすことから生まれます。

親子関係を見ても、もしも子供が、親の言う事を何でも聞く

従順な存在ならば何の問題も生じないはずです。

しかし、なかなか言うことを聞いてはくれません。

そうした関係が続くと、やがては互いに相手を自分の『敵』と

見なすようになっていきます。これは、親子に限らず

夫婦関係、友人関係、職場の対人関係すべてについて

言えることです。

つまり、他者を敵と捉える考え方こそが、人間関係の

悩みを作り出していると言えるのです。

 

 

人間の基本的な欲求のひとつに『所属感』があります。

「私は、ここに居て良いのだ」と、共同体の中に自分の居場所が

あると感じる。家庭、職場、学校、自分にとって居心地の良い

場所をどこかに持ちたいと思うことは、人間にとってごく自然の

欲求であり、それは人間の幸せや生きる喜びにもつながります。

 

 

アドラーは、甘やかしの危険性を次のようにいっています。

 

甘やかされた子どもは、自分の願いが法律になることを期待

するように育てられている。(中略)その結果、自分が注目の

中心でなかったり、他の人が彼(女)の感情に気を配ることを

主な目的にしない時には、いつも大いに当惑する。

(第1章 人生の意味「子供時代の経験」)

 

甘やかされて育つと、それが当たり前になってしまいますよね。

その「当たり前」が社会に出ると与えられなくなる。

そうなると、不機嫌になり、時には攻撃的になる。

親は、愛情を持って子供に接しているのでしょうが、

子供は、愛されていると感じないことが多くの問題を作っている

と、岸見先生はおっしゃっています。

これは、『課題の分離』がなされていないからではと私は思います

(『課題の分離』に関しては、後ほど説明いたします。) 

 

アドラーは、夜尿症について、子供の親への甘えの意思表示と

考え、次のようにいっています。

 

夜尿はいくつかの目的に役立つ。注意を引くこと、他の人を

仕えさせること、昼だけでなく、夜も注目させることである。

(第二章 心と身体「心と身体の相互作用」)

 

 

幼い頃に甘やかされて自分が世界の中心であると考えて育った人は、

「承認欲求」を持つようになるかもしれません。

しかし、承認欲求があると様々な問題が生じて来ます。

他者から褒められたり注目されないと「なぜ自分は認めて

もらえないのだ」と憤慨したり、「せっかくやったのに、

褒められないのなら、二度とやらない」と考える様になって

しまうのです。

 

他者に褒められたい、承認されたいという人は多いですが

承認されなくても何かをしなければならない場面は人生の

中には多々あります。

 

介護は、承認欲求がある人にとっては辛いものになります。

なぜなら、『ありがとう』という言葉を親からかけられることを

期待できないからです。同じ事は子育てにも言えます。

子供が親に『ありがとう』ということは、期待できないからです。

介護も子育ても『ありがとう』という言葉を期待するのを

止めれば良いのです。感謝されようがされまいが、親に

貢献できていると感じられれば、それでいい。

 

多くの人は『あなたにこれだけのことをしたのだから、私にも

何かをしてください。』と考えます。しかし、生きることは

『ギブ&テイク』ではありません。承認欲求がある人は

テイクを基本に考えますが、生きることは『ギブ&ギブ』なの

です。そんな風に考えて行動するのは、実際には難しいと

思う人があるかもしれませんが、貢献感を持てるようになれば

承認欲求は消えます。

 

 

私のカウンセラーさんが言うのは、これなんですね。

自分がやりたくてやっているのだから、それでいい。

相手に求めないということなんです。

ただ、与えるのみです。

そうすれば、腹も立たないということなんです。

 

 

承認欲求や世界の中心に自分がいるという意識から脱却する

為の方法は、まず、他者に関心を持つこと。

「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」と

いうことが「共同体感覚」のひとつの定義であるとアドラーは

考えました。

 

次に、他者は自分の期待を満たす為に生きているのではないこと

を知ること。

自分も他者の期待を満たす為に生きているのではありません。

他者からよく思われないことを怖れて、他者の期待を満たそうと

する人は、自分の人生ではなく、他者の人生を生きることに

なってしまいます。

自分の人生を生きようとすれば、他者との摩擦は必ず起こり、

自分を嫌う人も現れるでしょう。

しかし、自分の人生を生きる決心をすれば、他者から承認

されようとも思わないでしょうし、承認する他者に依存する

生き方をしなくて済むわけです。

他方で、もしも自分が他者の期待を満たす為に生きているのでは

ないとすれば、同じ権利を他者にも認めなければなりません。

他者も自分の期待を満たす為に生きているのではないと

いうことです。このように考えれば、他者が自分の思い通りの

ことをしないとしても、そのことを不愉快に思ったり、

憤りを感じなくなります。

 

次に『課題の分離』です。

これは、アドラー心理学を理解する上での重要なキーワードです。

あることの最終結末が誰に降りかかるか、その責任を最終的に

誰が引き受けなければならないかを考えれば、そのあることが

誰の課題かわかります。

例えば、勉強は誰の為にするのでしょうか。勉強しなければ

困るのは誰でしょうか。答えは明白です。

勉強は、親ではなく子供の課題です。それで進学や就職に

困るのは子供本人です。

 

対人関係のトラブルは、他人の課題に土足で踏み込むこと、

踏み込まれることから起こります。

子供が、本当に勉強が自分にとって必要だと思ったら、

親が何も言わなくても自主的に勉強に取り組むはずです。

 

今、課題の分離について説明したのは、承認欲求や世界の中心に

自分がいるという意識から脱却するための方法を明らかにする

為です。

他の人が自分をどう見ているかは、他の人の課題です。

 

 

私は、この考えは高校生の頃から強く持っていました。

頑張るのは自分の為で他の人の為ではないと。

親が敷いたレールを走るのは違う。自分の人生のレールは

自分で敷くんだと。

妹が進路で悩んでいた時も、この助言をしました。

自分で選んだことには責任があります。だから、後悔もしない。

もし、失敗しても他人のせいにしない。自己責任です。

 

自分の人生の課題は自分自身で解決していくしかない。

しかし、他者と協力しなければ乗り越えられないこともあります。

課題を分離することは対人関係の最終の目標ではなく、

他者との協力は必要になってきます。

ただし、その場合も「課題の分離」が前提になります。

どうしても自分だけでは解決できない課題については、協力を

求めてもいいですし、協力を求められたら、できるだけ

協力すれば良いのです。

これをアドラー心理学では『共同の課題にする』といいます。

 

部下が与えられた仕事をこなせない場合、課題の分離からいえば

部下の課題になりますが、一方で上司の課題と考える事もできます。

部下が失敗すれば、上司の指導が悪かったということで

その責任は上司にもあります。

共同の課題にする為には、部下に最近の仕事ぶりについて話したいと

いいます。このような共同の課題にする手続きを踏まなければ

話をすることもできません。

部下から断られるかもしれません。その場合は、静観するしか

ありませんが、事態が切迫している場合は対処する必要が

あります。普段から関係を良くしておかなければなりませんね。

上司側から「共同の課題にしよう」と言い出すのは

あまりお勧めできません。

そうすることで援助しようと思っているのではなく

自分の思うように相手をコントロールすることになりかねません。

部下から共同の課題にして欲しいという申し出があった場合のみ

きちんと話し合い、協力出来るものについてだけ行うのが理想です。

 

 

日本人としては、かなりクールな考え方だと感じる方もいると

思います。

私は、これは『距離間』だとも思うのです。

子供の勉強に関しても親として心配になるでしょう。

いい成績を取って、いい大学に行って、良い会社に就職して

欲しいと望むことでしょうね。それが子供にとって幸せだと

思うから。しかし、本当にそれがその子の幸せなのでしょうか?

立派な子育てとは、自立・自律できるように育てる事だと

私は思います。自分で考え、自分で選び行動できる責任感。

親の見栄の為に子供を育てているのなら、その子は不幸です。

 

日本人は、相手の気持ちを察するという能力があります。

相手の気を察して、これ以上は踏み込んではいけないなと

感じる事ができるのではないでしょうか。

世話好きな日本人には、アドラーのような思考は

難しいかもしれませんね。

『大人としての対応』だと思うのです。

トラブルがあった時に、イチイチ目くじら立てて暴れるのは

違います。それは、子供がすることです。

子供にも大人としての対応をする。そうすれば、子供も穏やかに

対処します。子供は、大人が思っているよりずっとしっかり

しています。自分のことをちゃんと考えているものです。

子供の持っている良い面を潰すことは、してはいけない。

私の主治医が昔こんなことを言いました。

『親は、あなたの為よと言いながら、子供を潰すものだ。』

精神科医が、そう言うのですから、そうなのでしょうね。

 

 

 

 

岸見先生の文章と私の文章を分ける為に書体を変えています。

読みづらいかもしれませんがご了承ください。

 

(人生の意味の心理学 参照)

 

 

2016年6月 7日 (火)

つぶやき 8

関東も梅雨入りしましたね。

ブログ記事も堅苦しい記事が続いたので、ちょっと休憩で

つぶやきます。

 

さて、最近の私は、なんだか可笑しい。

体が軽くなって中から力が湧いて来るような感覚がして…

何だか壊れているのか?

良い事がありそうな感じは、なんだろうか?

乙女のようにワクワクしてくるのですよ。

友が『恋でもしているのか?』と。

それは、ない

 

 

最近、マンションの関係でバタバタしています。

小さな事だけどボロボロと出て来て管理会社の担当さんと

連絡を取ったり、理事長と連絡を取ったりしています。

マンションの担当さんが変りました。

これも、ひと揉めありました。

4月は人事異動の時期です。

やっと仕事を覚えて熟してくれるようになった担当くんを

外されました。

しかも事情の解っている人が総入れ替えされました。

これには、3人娘の長女が吠えました。(ちなみに私は二女です)

問題を抱えているのだから、事情の解っている人を残してと

毎回頼んでいるにも関わらず、今回も総入れ替えとは!

また、1からです。

その穴埋めを、また私達3人娘が背負うことになります。

長女は、戸外に住んでいるし、三女(理事長)は、仕事に出ているし、

お留守番役の二女が動かなければなりません。

たまに長女に連絡して相談して動きます。

私のお友達が『エルザさんには、そういうのが向いているよ。

世話好きなんだからさ。』と(´ェ`)-・・ソッカナ?

 

 

先日、テレビをつけて家事をしていると…

『普段は、絶対にやらないことを高齢者はSNSでやってしまい、

トラブルになるのですね。』と。

『これ、私じゃん!!』と家事の手を止め聞き入りましたが、

時すでに遅し…終わっていた。(´゚ェ゚)チーン

ウル覚えなのですが、顔が見えないことで調子に乗ってしまい

気が付くと喧嘩になっているらしいのです。

文字だけで伝えるって本当に難しいし、暴言も吐きやすいです。

SNSの怖い所です。

やり取りが楽しくて調子に乗ってしまうのは分かります。

私も経験がありますから。

それで痛い目にも遭っています。

ある人がこんなことを言っています。

『人間関係のどれも、馴れ合いがトラブルを招きます。』 

今の私には、この言葉が痛いほど解ります。

(多分、事情を知っているお友達は笑っているでしょうね^^;) 

仲間意識が強い私には、距離間がわからなくなります。

だからこそ、注意しなければいけないのですよ。

(いまだに引きずっているマルサのエルザです^^;) 

 

 

エルザとして広場で活動を始めて3年目に突入しました。

(*´∀`)o∠☆゚+*PAN!!★゚+*

その前からのMの活動を入れると5年目になります。

色々ありましたね~

みなさんに助けられてここまで来ました。

♪感謝☆(人゚∀゚*)☆感謝♪です。

広場でのつぶやきも楽しませて頂いています。

調子に乗らないよう気を付けています。

 

ブログの方は、アドラー心理学を、あと2回書きます。

音楽ファンの方、もう少しお待ちください。

アドラー心理学を投稿する前はとても迷いました。

苦言もあるだろうと…

しかし、これが思いもよらずお陰様で好評です。

私のブログで2番人気の記事になりました。

お役に立てれば幸いです。

 

アクセス解析を見ると、時々2070ページ閲覧している方もいます。

興味を持って見て頂いていることを嬉しく思います。

ココログ内の方は、わかるけど、サイト外の方はどうやって

入って来るのだろうか?検索をしている訳でもない。

お気に入りに入れてくれているのかな?

コメントをくださればお礼がしたいです。

いずれにしても嬉しいことです。

ありがとうございます(*^_^*)

 

これからも『エルザのブログ』宜しくお願い致します。

 

 

 

2016年6月 5日 (日)

アドラー心理学(人生の意味の心理学) 3

自分を苦しめている正体は『劣等感』である

 

自分を好きになれない人がいますよね。

まぁ、自分が大好きだと人前で言うのは逆に引かれてしまう。

劣等感と上手く付合えれば飛躍の原動になります。

劣等感は、『思い込み』かもしれませんよ。


 

人間であるということは、劣等感を持っているということ。

 by アドラー

 

劣等感を持つのは「目的」があるから。

そういう自分をあえて選んでいるのです。

人間関係を避けるのは、関わって傷つくことを怖れているから。

ここで言う劣等感とは「理想の自分と現実の自分とのギャップ」

劣等感をプラスに変えることも出来ます。

自分の中での問題だと捉えると大きな飛躍に結び付けられます。

 

劣等コンプレックスは、○○であるから○○できない。

○○でないから○○できない、との考え方です。

例えば、美人じゃないから彼氏ができない。

見掛けの因果律を立てて、人生の課題から逃げようとする。

現実は受け入れる。受け入れるのも勇気がいりますね。

 

劣等コンプレックスに対し優越コンプレックスを持つ人もいます。

自分を実際よりも優れているように見せようとします。

他者からどう見られているかを非常に気にします。

自分で自分についての理想を高くしようとする。

いじめや差別も優越コンプレックスの特徴です。

自分の不幸自慢もそうです。

劣等コンプレックスと優越コンプレックスは、実は繋がっています。

強い劣等コンプレックスを持っている人が、自分より弱い人を

ターゲットにして自分を上に置こうとします。

特異な優越感を持つこと、不幸であることによって特別で

あろうとするのです。弱点を武器にするみたいな…

あなたが思っているほど、誰もあなたに期待していないもの。

 

我々の文化において弱さは非常に強くて権力がある。

 

そのままの自分を認めよ。

 by アドラー 

 

自分を実際より強く見せたり、弱く見せるのは疲れますよ。

だって、本当の自分ではないのだから。

何処かに無理が出て、空回りします。

まぁ、女優、俳優を日常生活で演じている人もいますよ。

でも、本当の自分ではないのだから、いつかボロが出る。

嘘つき呼ばわりされたりすることになります。

そのままでいることは楽ですよ。

もし、嫌われても『これが自分だ。』と思えばいいのですよ。

嫌われる勇気も必要ってことですね。

 

 

劣等コンプレックス、優越コンプレックスから脱け出すためには、

普通であることの勇気を持つことである。

特別 良くも悪くもなることはないのです。

ありのままの自分から始めましょう。

しかし、人は向上したいと願います。

その為にライバルを置く人もいます。

しかし、ライバルと競争する必要はないのです。

上下ではなく、前後に置いて歩めばいいのです。

 

健全な劣等感とは、他者と比較して自分が劣っていることで

感じるものではなく、理想の自分との比較の中で生まれるもので

あり、健全な優越性の追求とは、自分にとっての「マイナス」

から「プラス」を目指して努力すること。

競争するのは他者ではなく自分である。

 

アドラーは優越性の追求について、こう言っています。

しかし、真に人生の課題に直面し、それを克服できる唯一の

人は、その「優越性」の追求において、他のすべての人を

豊かにするという傾向を見せる人、他の人も利するような

仕方で前進する人である。

 

劣等コンプレックス、優越コンプレックスがある人の問題は、

自分のことだけ考えて生きているという点です。

他者は、「敵」ではなく、「仲間」と思えれば、誰かの役に

立ちたいという気持ちが生まれます。

 

 

これなんです

私が、目指すところは。

それを誤解されてしまうのですね。

神様ぶるな!と… そんなつもりはないのですが。

私のやり方が悪いのだろうか?

私に「敵」はいません。知り合った人は、「仲間」なんです。

私は、子供の頃からそうでした。お姉ちゃん気質で

クラスに転校生が来ると、真っ先に声を掛けるタイプ。

みんなで一緒に楽しくやろう!がモットーです。

だから、お節介ではありますが色々と声掛けをします。

これも『お姉ちゃん気質』が、そうさせるのかな?

最近、この私のお節介の原理もわかってきました。

だから、なるべく手出しをしないようにしています。

私も癖の強い人間かも知れませんね。

まだまだ、変えないといけない所がいっぱいだね~^^;

ロジカル(論理的)思考も変えないといけないのかな~

今の所、不自由は感じていないけど、柔らかさを

求めるのなら、変えた方が良いかもですね。

 

 

岸見先生の文章と私の文章を分ける為に書体を変えています。

読みづらいかもしれませんがご了承ください。

 

 

(人生の意味の心理学 参照)

 

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